日常生活のための四聖諦

日常生活仏教

四聖諦とは

 四聖諦(ししょうたい)は、お釈迦さまが初めてお説法なさったときから、ご入滅なさる直前まで説き続けられた教えです。仏教の根幹を成す教えといっていいでしょう。

 「諦」とは、「悟り」とか「明らかにする」という意味です。この教えは、四つの諦(悟り)で成っているので、四聖諦と言います。

 四聖諦には、人々が悩みや苦しみから救われる道が、詳しく説かれています。日常生活における悩み・苦しみを、解決するために説かれた教えと言ってもいいと思います。

四聖諦の構成

 四聖諦は、苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)の、四つの悟りで構成されています。 

 苦諦:今、自分が苦しんでいる苦しみ・悩みを明らかにします。

 集諦:自分の苦しみ・悩みの原因は、自分の中にあります。この、自分の中にある苦しみ・悩みの原因を明らかにします。

 滅諦:自分の中にある苦しみ・悩みの原因を滅すれば、自分の苦しみ・悩みが滅することを明らかにします。

 道諦:自分の中にある苦しみ・悩みの原因を滅する道を明らかにします。

 四聖諦の特徴は、苦しみと取り組むのではなく、苦しみの原因と取り組むことです。それも、自分の中にある苦しみの原因と取り組むのです。原因を取り除けば、苦しみは抜本的に解決します。

 他人の中にある苦しみの原因は、自分の力では取り除けません。しかし、自分の中にある苦しみの原因なら、自分の努力で取り除くことができます。

 四聖諦は、自分の努力が確実に成果に結びつくようにできていると言えます。

苦諦

 「苦諦」は、「苦を悟る」で、「自分が苦しんでいる苦を明らかにする」ことです。

  自分が苦しんでいることに気付かない人、自分が苦しんでいることを受け入れない人、自分が苦しんでいることを認めない人は、苦を解決することはできません。

  自分は、このことを、このように苦しんでいるとはっきりと自覚した人は、苦しみを解決する道に入ることができます。  

 苦しみとは、「ものごとが自分の思い通りにならない」と感じることです。自分が希望した通りの結果が出ない、自分が期待したことが裏切られる、人が自分の思い通りに動いてくれない、そのようなときに苦しみの感情が生じます。苦しみの感情が生じると、これにつれて怒りが生じることが多いようです。

 苦しみの感情が生じたとき、怒りを発することなく、理性的に、「いま、自分はこのことを、このように苦しんでいる」と自覚すれば、これが苦諦となります。

集諦

 「集諦」は、「苦の原因を悟る」で、「自分の中にある苦しみの原因を明らかにする」ことです。「集」には、「原因」という意味があります。  

  人間の行ないには、身業(しんごう=身体的行為)、口業(くごう=言語的行為)、意業(いごう=精神的行為)の三つがあり、これを「身口意の三業(しんくいのさんごう)」と言います。

  苦しみの原因は、自分の行為(身業)、自分の言葉(口業)、自分の心(意業)にあるのです。言葉と行為は、心から生じますので、根本的には、苦しみの原因は、自分の心にあります。

 仏教経典には、「苦しみの原因は渇愛(かつあい)である」とあります。渇愛とは、要するに、ものごとが自分の思う通りになってほしいと激しく思う心です。自分本位の心です。

 ものごとを自分本位に考え、自分本位の言葉を吐き、自分本位に振舞うと、人に迷惑をかけることとなりますが、同時に、自分に苦しみを招くのです。

滅諦

「滅諦」は、「苦の滅を悟る」で、「自分の中にある苦しみの原因が滅すると、自分の苦しみが滅する」ことを明らかにするのです。

多くの人が、苦しみの原因を放置したまま、苦しみをなくそうとしています。しかし、苦しみの原因が残っているかぎり、苦しみはなくなりません。

集諦で明らかになったことを踏まえれば、自分本位の心を捨て、自分本位の言葉を使わず、自分本位の振る舞いをやめれば、苦しみはなくなるのです。

苦しみの原因をなくそうと決意したら、苦しみの原因をなくしたあとの自分を思い描きます。自分は自分本位の心を持たなくなる。自分本位の言葉を使わなくなる。自分本位の行ないをしなくなる。すると、こういう苦しみはなくなる。このように思い描き、そうなりたいと願うのです。これが修行の目標となります。

道諦

 道諦は、道を明らかにするで、「自分の中にある苦しみの原因を無くす修行の道を明らかにする」のです。

 修行は、日常生活の中で行ないます。とりわけ、日常の人間関係の中で行ないます。日常の人間関係における、心、言葉、行為を改めるという取り組みになります。

 仏教では、ここで八正道の実践が説かれます。

私は、八正道から取り出した二つの修行をお薦めしています。それは、止惡の戒の実践と、修善の戒の実践です。

止惡の戒

自分の身口意の三業と苦しみの関係を、次のように言うことができます。

・自分の行なったこの行為が自分の苦しみの原因となった。

・自分が言ったこの言葉が自分の苦しみの原因となった。

・自分が心でこう思ったことが自分の苦しみの原因となった。

  そこで、自分の苦しみの原因となった行為を行なわず、言葉を言わず、心を起さないように気をつけるのです。これが、止惡の戒です。止惡の戒を実践すれば、苦の原因を作りませんから、苦しみは生じません。

  そうは言っても、止惡の戒を実践するのは、当初は、かなりな困難が伴います。すっかり癖になっている行ないを止めようとするのですから、簡単ではありません。意を決して取り組まなければならず、まさしく修行です。しかし、この修行は、途中であきらめさえしなければ、必ず成就します。

修善の戒

 止惡の戒は、なかなか難しいのです。この行為をするまい、この言葉を言うまい、この心を持つまいと思っても、保ちきれなくなるのです。

 そこで、次のような取り組みをします。

 身体的行為では、行なってはならない行為の反対の行為を行なうことを心がけます。

 言語的行為では、言ってはならない言葉の反対の言葉を言うことを心がけます。

 精神的行為では、持ってはならない心の反対の心を持つことを心がけます。

 積極的に、善い行ないをしようと心がけるのです。これを、修善の戒と言います。

 これもまた、簡単ではありません。この行為をしよう、この言葉を言おう、この心を持とうと思っても、つい忘れてしまうのです。

 しかし、繰り返し、繰り返し、行なおうとするうちに、いつしか行えるようになります。

止惡の戒・修善の戒

「修善の戒」は、「するべきことをする」修行です。「止惡の戒」は、「してはならないことをしない」修行です。

  「修善の戒」と「止惡の戒」は、並行して行います。これによって、「するべきことをして、してはならないことはしない」という修行になります。

  「修善の戒」と「止惡の戒」を並行して行なうと言いましたが、主となるのは「修善の戒」です。「するべきことをする」ことを主とします。

  するべきことをしていると、自分の中から、してはならないことをしようとする衝動が沸いてきます。これを感じたら、「止惡の戒」で押しとどめるのです。

 これもなかなか難しいのですが、繰り返し、繰り返し、修行するうちに、やがて、「するべきことをして、してはならないことはしない自分」になっていくのです。

四聖諦の修習

 四聖諦の修習は、自分を向上させる意味で、必ず取り組むべきだと思います。

 しかし、初めのうちは、うまくいかないこともあります。そのようなときは、下記の「お問い合わせ」を使って、当方までご連絡ください。ご一緒に取り組ませていただきます。

浪 宏友(本名:中原常友)
詩人・仏教研究家・経営コンサルタント
妙法蓮華経と原始仏教を学び続けて70年
宗教ではない仏教「ビジネス縁起観」を開発
1940年(昭和15年)生

namiをフォローする
日常生活仏教