お釈迦さまの教え 四聖諦

仏教

お釈迦さまの教え
 お釈迦さまは、八万四千の教えをお説きになったと伝えられています。
 教えを聞く人に応じて、適切な内容で、適切な言葉でお説きになりますから、教えを聞く人の数だけ、教えが生れるのです。
 その数知れぬ教えの根本は、ただ一つの、お釈迦さまがお悟りになった「縁起の法」でありました。

 お釈迦さまの教えの中心は、「四聖諦」と「八正道」であると言っていいと思います。お釈迦さまの八万四千の教えは、すべて、四聖諦に収まると言われています。
 ここでは、四聖諦を、現代のはたらく社会人のために、ご説明させていただきたいと思います。

四聖諦はすごい教え
 四聖諦は、すごい教えです。
 四聖諦を学んで、理解して、実行すると、次のような効果が現れます。

 いま、自分が苦しんでいる苦しみを無くしてくれます。
 苦しみが無くなったころには、幸せへの道を歩いています。
 気が付くと、自分が人間的に成長しています。
 そして、
 まわりとも上手くいくようになります。
 仕事も上手くいくようになります。
 自分は、安心して毎日を暮し、幸福な人生を歩むことができます。
自分の行なうことが、まわりを幸せにします。

 こんなすごい四聖諦を、ただ見ているだけではもったいない。
 ちょっと、食いつきは悪いかもしれませんが、噛めば噛むほど味が出てきます。
 とにかく、学んで、理解して、実行することをお勧めします。

四聖諦の概要

四聖諦の要素
 四聖諦は、苦諦・集諦・滅諦・道諦という、四つの聖諦を要素として成り立っています。
 「諦」は、現代語では「諦める」と読み、断念することを意味しますが、四聖諦では、「諦める」は「明らめる」で、「明らかにする」ということです。
 「聖」は、清らかで尊いという意味です。
 「聖諦」とは、事実を明らかに見て、現実を直視し、ありのままに受け入れる、清らかで尊い見かたということです。
 「事実を明らかに見て、現実を直視し、ありのままに受け入れる」という態度には、現代科学に通じるものがあります。

各諦の意味
苦諦
 苦諦とは、苦を明らかにするということです。
 現在、自分が苦しんでいる苦を明らかに見て、現実を直視し、ありのままに受け入れるのです。
 四聖諦は、自分が苦しんでいる苦を滅する教えですから、自分が苦しんでいる苦が対象となるのです。
 いま、自分は、こういう状況の中で、このことを、このように苦しんでいる。このように自覚できれば、苦諦ができたといえるでしょう。

集諦
 集諦とは、苦の原因を明らかにするということです。
 「集」は、集めるということですが、何を集めるのかといえば、苦の原因を集めるのです。苦の原因は、一つや二つではないということです。
 しかし、沢山ある苦の原因の中の、少なくとも一つは、苦しんでいる本人の中にあります。ここでは、苦しんでいる本人の中にある苦の原因を明らかにするのです。
 「自分の苦しみを作っている、自分の中の原因はこれだ」と、自覚できれば、集諦ができたといえるでしょう。

滅諦
 滅諦とは、苦の原因を滅すれば、苦が滅することを明らかにするということです。
 自分の中にある苦の原因を滅しますと、自分の苦が滅するのです。それを、明らかにするのです。
 自分の中にある苦の原因を滅すれば、自分の苦は滅すると自覚できれば、滅諦ができたといえるでしょう。

道諦
 道諦とは、苦しみの原因を滅する道を明らかにするということです。
 自分の中にある苦しみの原因を滅するための方策を、明らかにするのです。
 自分の中にあるこの苦の原因を滅するには、自分は、これこれのことを行なえばよいと自覚できれば、道諦ができたと言えるでしょう。

四聖諦が行なうこと
 四聖諦が行なうことは「自分の中にある苦しみの原因を滅する方策」を見つけることです。
 見出された方策を実行すれば、自分の中にある苦の原因が滅して、自分の苦が滅します。
 この方策を実行しなければ、自分の中にある苦の原因は温存されますから、自分の苦が滅することはありません。
 四聖諦で、自分の中にある苦しみの原因を滅する方策が分かったからには、これを実行するのみです。

マネジメントサイクルと四聖諦
 四聖諦を、マネジメントサイクル、PDCA---プラン・ドウ・チェック・アクションに位置づければ、プランに当たります。綿密に検討して策定したプランです。
 プランを立てたからには、ドウ(プランの実行)に入らなければなりません。そして、チェック・アクションへと進むのです。
 これによって、自分の苦が滅するという成果を得ることができるのです

苦痛と苦悩

苦痛と苦悩
 私たちが味わう「苦」は、大きく二つに分けて考えることができます。これを、「苦痛」と「苦悩」と呼ぶことにします。

 苦痛とは、誰もが同じように受け、同じように味わう苦しみと言ったらいいでしょうか。
 病気をして苦しい、怪我をして痛い、のどが渇いてたまらないというような身体的な苦痛があります。
 夏になると暑くて暑くて熱中症になりそうだというような環境的な苦痛があります。
 世の中不景気で商売上がったりだというような社会的な苦痛があります。
 あいつはすぐに皮肉を言って人を不快にするというような人間関係上の苦痛もあります。
 こうした苦痛は、誰でも、同じように受け、同じように味わう苦痛です。避けられるものもありますが、避けられないものもあります。

 苦悩は、自分の心に生じる苦しみです。仏教の経文にはしばしば、「嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩み」という言葉が出てきますが、これは苦悩を表しています。このほかにも、さまざまな苦悩があります。

箭の譬え
 阿含経に、「箭(や)によりて」というお釈迦さまの教えがあります。
 ある人が、箭に射られます。すると、その人は、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打って、心が狂乱するにいたります。
 ここで「箭に射られた痛み」が、苦痛です。
 「泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打って、心が狂乱する」のが苦悩です。
 肉体的な苦痛が生じたことによって、精神的な苦悩が生じたのです。
 精神的な苦悩が生じた人は、さらに心や行いに乱れが生じます。こうして混迷が深くなっていくのです。

 別のある人が、同じように箭に射られます。しかし、その人は、泣きません、悲しみません、声をあげて叫びません、胸を打ちません、心が狂乱しません。
 この場合も、箭に射られたことによって肉体的な苦痛は生じますが、精神的な苦悩は生じていません。
 精神的な苦悩が生じない人は、心も行ないも乱れません。

 同じ目に合えば、同じように苦痛が生じるけれども、苦悩が生じる人と生じない人がいるということです。

不景気
 世の中が不景気になりますと、多くの企業が打撃を受けます。これは苦痛です。
 打撃を受けた企業の経営者の中には、不安に満たされ、動揺し、イライラし、仕事も手につかなくなる人がいます。これは苦悩に押し潰された姿です。
 世の中が不景気でも、不景気を受けて立って、不安はあっても動揺することなく、正しく仕事を進める経営者もいます。苦悩しないのです。
 同じ不景気の中にいても、苦悩する経営者と苦悩しない経営者がいるのです。

苦悩が生じる人、生じない人
 避けられる苦痛は避けた方がいいと思いますが、中には避けられない苦痛もあります。苦痛は避けられないとすれば、苦痛にどう向きあうかという課題が生じます。
 苦痛を受けると苦悩する人。同じように苦痛を受けながらも苦悩しない人。その間にはどんな違いがあるのでしょうか。
 苦痛を受けたとき、苦痛を正面から受け止め、正しく対処できる人は、苦悩することはありません。
 苦痛を受けたとき、苦痛を正面から受け止めきれず、対処することもできない人は、
苦悩します。
 仏教では、智慧のある人は苦痛を受けても、正しい対処ができるので苦悩しない、智慧の無い人は苦痛を受けると、対処できないので苦悩すると考えています。

苦痛があっても苦悩しない自分になる
 苦悩が生じたとき、四聖諦で自分を見つめ直し、苦悩の原因を見つけて取り除けば、苦悩が滅します。苦悩が滅すれば、苦痛に対して正しく対処することができます。
 四聖諦を学び、理解し、実践することによって、そういう自分になることができます。

苦諦

苦諦
 四聖諦の第1は「苦諦」です。
 苦諦とは、苦を明らかにするということです。
 苦には、苦痛と苦悩がありますが、ここでは苦悩が中心です。現在、自分が苦しんでいる苦悩を明らかにして、ありのままに受け入れるのです。
 四聖諦は、自分が苦しんでいる苦を滅する教えですから、自分が苦しんでいる苦が対象となるのです。
 いま、自分は、こういう状況の中で、このことを、このように苦しんでいる。このように自覚できれば、苦諦ができたといえるでしょう。

四苦八苦
 原始仏典には、四苦八苦が説かれています。
 次の四つが四苦です。
  生苦:生れる苦しみ、
  老苦:老いる苦しみ、
  病苦:病気や怪我をする苦しみ、
  死苦:死ぬ苦しみ。
 これら四つは、人生途上の苦しみと言えます。

 これに、次の四つが加わって、八苦となります。
  愛別離苦:愛する人と別離する苦しみ。
  怨憎会苦:怨み憎む人と会う苦しみ。
 この二つは、人間関係の苦しみです。
  求不得苦:求めるものが得られない苦しみ。
 いわゆる、思うにまかせぬ苦しみです。
  五陰盛苦:肉体と心を持ってこの世に生きることは苦しみであるということで す。

現代人の苦しみも、具体的な形は昔と異なっていますが、内容的には、ほぼこの中に収まるようです。

苦の兆候
 自分が苦しんでいるかどうか分からないこともあります。そのときは、苦しみの兆候があるかどうかを見るとよいと思います。
 今の自分に次のような兆候があれば、自分は苦しんでいる可能性が高いのです。

 ・自分が怒っていたら、自分は苦しんでいます。
 ・他の人に向かって文句を言っていたら、自分は苦しんでいます。
 ・人を非難する心がわいてきたら、自分は苦しんでいます。
 ・行き詰まっていたら、自分は苦しんでいます。
 ・不安を感じていたら、自分は苦しんでいます。
 ・やっていることを投げ出したくなったら、自分は苦しんでいます。
 ・泣きたい気持ちになっていたら、自分は苦しんでいます。
 ・自分がみじめに感じていたら、自分は苦しんでいます。
 ・ものごとを悪い方へ悪い方へと考えていたら、自分は苦しんでいます。
 ・人の言葉を聞きたくなかったら、自分は苦しんでいます。
 ・何も言いたくなかったら、自分は苦しんでいます。

苦しみを放置するのは危険
 苦しみを放置しておくと、知らず知らずのうちに、マイナスのほうへ進んでしまいます。気が付いたときには手遅れということもあります。
 自分の苦しみを、早く察知して明らかにし、対処することが大切です。
 今、何が起きているのか、その状況の中で自分は何を苦しんでいるのか、どのように苦しんでいるのか、明らかにするのです。

人間関係の苦しみ
 私たちの苦しみの九割がたは、人間関係の苦しみであると言われます。
 四苦八苦の中にも、「愛別離苦・怨憎会苦」と、人間関係の苦しみが挙げられていますが、なかでも「怨憎会苦」の苦しみが多いようです。

  相手から嫌なことをされる。
  相手が自分を理解してくれない。
  相手が自分の思い通りにしてくれない。
  相手が自分よりも得をしている。
  相手のやることが、ひとつひとつ気に入らない。
  などなど、数え上げるときりがありません。

 自分と誰との間がどうなっていて、どのような苦しみが生じているか、明らかにするところから始める必要があると思います。

集諦

集諦
 四聖諦の第2は集諦です。
 集諦とは、苦の原因を明らかにするということです。
 「集」は、集めるということですが、何を集めるのかといえば、苦の原因を集めるのです。苦の原因は、一つや二つではないということです。
 しかし、沢山ある苦の原因の中の、少なくとも一つは、苦しんでいる本人の中にあります。ここでは、苦しんでいる本人の中にある苦の原因を明らかにするのです。

人間関係における苦の原因
 苦しみの大半は、人間関係の苦しみだと言われます。人間関係における苦しみの原因、それも自分の中にある原因は、自分の発した言葉、自分の行なったこと、そして、そのような言葉や行ないを起こした自分の心にあります。

  自分の、この言葉が苦しみの原因となった。
  自分の、この行為が苦しみの原因となった。
  自分の、この心が苦しみの原因となった。

 このように明らかにできればいいと思います。
 集諦ができて、自分の中にある苦しみの原因が明らかにできましたら、苦しみの解決はすぐそこにあると言っていいでしょう。

渇愛
 原始仏典では、苦しみの原因は「渇愛」であると断じています。
 渇愛とは、咽喉がカラカラに乾いた人が、水が欲しい水が欲しいと求めるように欲しがることと説明されます。要するに、欲しい、欲しい、もっと欲しいと、求めること、と言えばいいでしょう。
 自分の中にある、苦しみの原因となった言葉・行為・心は、渇愛をもととして生じたのです。すなわち、より根本的な苦しみの原因は、渇愛であるということができます。

四苦八苦は苦痛
 苦諦のところで、四苦八苦を上げましたが、実は、四苦八苦として列挙されているものは、すべて苦痛なのです。
 これらの苦痛を受けると苦悩する人が多いのです。
 しかし、これらの苦痛を受けても苦悩しない人もいます。

 「生れる」という苦痛を受けて、苦悩する人、苦悩しない人。
「老いる」という苦痛を受けて、苦悩する人、苦悩しない人。
「病気や怪我をする」という苦痛を受けて、苦悩する人、苦悩しない人。
「死ぬ」という苦痛を受けて、苦悩する人、苦悩しない人。
そして、 
「愛する人と別離する」という苦痛を受けて、苦悩する人、苦悩しない人。
「怨み憎む人と会う」という苦痛を受けて、苦悩する人、苦悩しない人。
「求めるものが得られない」という苦痛を受けて、苦悩する人、苦悩しない人。
「肉体と心を持ってこの世に生きる」という苦痛を受けて、苦悩する人、苦悩しない人。

  四苦八苦を苦悩する人は、渇愛を持つ人です。渇愛がない人は、四苦八苦という苦痛はあっても苦悩しないのです。
 

自分本位
 渇愛は、自分本位の心です。ですから、渇愛を原因として生じた言葉・行為・心は、
自分本位のことを話し、自分本位の行ないをし、自分本位のことを考えます。そのために、苦しみの原因となるのです。

 ここで、改めて、人間関係の苦の原因を考えますと、
  自分本位のこの言葉が、苦しみの原因となった。
  自分本位のこの行為が、苦しみの原因となった。
  自分本位のこの心が、苦しみの原因となった。
と、なります。
 そして、その奥には、渇愛があるのです。

滅諦

滅諦
 四聖諦の第3は滅諦です。
 滅諦とは、苦の原因を滅すれば、苦が滅することを明らかにするということです。
 自分の中にある苦の原因を滅しますと、自分の苦が滅するのです。それを、明らかにするのです。
 自分の中にあるこの苦の原因を滅すれば、自分のこの苦は滅すると自覚できれば、滅諦ができたといえるでしょう。
 この場合、気をつけたいのは、滅するのは苦悩であって苦痛ではないということです。苦痛が滅することもありますが、残ることもあります。しかし、苦悩がなくなれば、苦痛はあっても無きがごときものとなります。

言葉・行為・心を改める
 人間関係における苦悩の原因は、言葉・行為・心にあります。
 そこで、言葉・行為・心を改めれば、人間関係の苦悩は滅します。

  苦悩の原因となった言葉を、使わないようにします。
  苦悩の原因となった行為を、行なわないようにします。
  苦悩の原因となった心を、持たないようにします。
 
 これができれば、人間関係の苦悩はなくなります。

渇愛を滅する
 言葉・行為・心を改めようと思っても、容易に改まらないこともあります。それは、
渇愛が潜んでいるからです。
 渇愛を滅すれば、言葉・行為・心も改まります。
 この場合は、自分のこの渇愛を滅すれば、自分の苦は滅すると明らかにします。これが滅諦となります。

苦の原因を滅する決意
 集諦で、自分の苦悩の原因はこれだと明らかになり、滅諦で、この苦悩の原因を滅すれば、自分の苦悩は滅するのだと明らかになります。
 ここまできましたら、「よし、私は、私の中にあるこの苦悩の原因を滅するぞ」と決意したいと思います。
 この決意によって、修行目標が定まります。この目標に向かって、修行をすればいいわけです。

道諦

道諦
 四聖諦の第4は道諦です。
 道諦とは、苦しみの原因を滅する道を明らかにするということです。自分の中にある苦しみの原因を滅するための方策を、明らかにするのです。
 自分の中にあるこの苦の原因を滅するには、自分は、これこれのことを行なえばよいと自覚できれば、道諦ができたと言えるでしょう。

止惡の戒
 苦の原因は、自分の用いた言葉、自分の行なった行為、そのときの自分の心にあります。そこで、苦の原因となった言葉・行為をやめ、そのときの心を改めるということになります。これは、悪い行ないを止める修行という意味で、止惡の戒と言います。
 止惡の戒で、悪い行ないをしないように繰り返し努力すれば、次第に悪い行ないが出にくくなり、ついには出なくなります。

修善の戒
 悪い行ないを裏返すと、そこに善い行ないを見出すことができます。これを行なうのが修善の戒です。悪い言葉を裏返したところにある善い言葉を話し、悪い行為を裏返したところにある善い行為を行い、悪い心を裏返したところにある善い心を持つようにするのです。
 修善の戒で、善い行ないをするように繰り返し繰り返し努力すれば、次第に善い行いがしやすくなります。そのぶん、悪い行ないがしにくくなります。これを続けていれば、やがて、悪い行ないが出なくなり、善い行いが自然に出るようになります。

止惡の戒と修善の戒は表裏一体
 止惡の戒と修善の戒は、別々の修行ではありません。表裏一体の修行です。そして、主役は修善の戒であり、止惡の戒は悪い行ないが出ようとするとき、これを食い止める修行だと心得るべきでありましょう。


渇愛を滅する修行
 根本的な苦悩の原因は渇愛にあります。苦悩の原因を滅する根本的な修行は、渇愛を滅する修行になります。
 止惡の戒と修善の戒は、渇愛を滅する修行の一環となっています。止惡の戒と修善の戒を実践した分だけ、渇愛が滅するのです。
 渇愛を根本的に滅する修行は、八正道です。原始仏典には、道諦とは八正道の実践であると記されています。止惡の戒と修善の戒の八正道の一つです。

八正道の修行
 心を改め、言葉を改め、行為を改める修行は、八正道における、正思・正語・正業の修行に当たります。
 これらの修行を支えるのが、正見・正命・正精進・正念・正定の修行です。
 八正道については、別稿を儲けます。

四聖諦は計画立案
 滅諦で、修行の目的を確立し、道諦で、どんな修行をすればいいかを明らかにしました。これは、修行の計画を立案したということです。 
 以前に申し上げた通り、四聖諦をマネジメントサイクル、PDCA---プラン・ドウ・チェック・アクションに位置づければ、プランに当たります。四聖諦で、苦を滅するプランを確立することができたのです。

実行
 プランを立てたからには、ドウ(プランの実行)に入らなければなりません。そして、チェック・アクションへと進むのです。
 これによって、自分の中にある苦の原因を滅して、自分の苦を滅するという成果を得ることができるのです。

自分との戦い
 自分の中にある苦悩の原因は、簡単に滅することができるものもありますが、なかなか根強くて、容易に滅しないものもあります。特に、渇愛とそこから生じる煩悩は、容易に滅しようとしません。
 渇愛に引きずられると、苦悩の原因を作ってしまいますから、この渇愛と戦わなければなりません。これが、自分との戦いです。
 自分との戦いに敗れると、自分を不幸にする道に引きずり込まれることとなります。
 自分との戦いに勝利すれば、自分を幸福にする道を歩むことになります。
 なんとしても、勝利しなければならない戦いです。粘り強く努力するほかありません。

浪 宏友(本名:中原常友)
詩人・仏教研究家・経営コンサルタント
妙法蓮華経と原始仏教を学び続けて70年
宗教ではない仏教「ビジネス縁起観」を開発
1940年(昭和15年)生

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