「中道」の実務上の定義
定義1:中道とは、正しい目的を達成するために役に立つ行ないである。
定義2:中道とは、するべきことをして、してはならないことはしないことである。
この、中道に関する二つの定義は、私(浪 宏友)が、試行錯誤を経て立てた、実務上の定義です。
初転法輪の中道
お釈迦さまは初転法輪で「中道」をお説きになりました。
「世尊は、五人の比丘たちに告げて仰せられた。
『比丘たちよ、出家したる者は、二つの極端に親しみ近づいてはならない。その二つとはなんであろうか。
愛欲に貪著することは、下劣にして卑しく、凡夫の所行である。聖にあらず、役に立たないことである。
また、苦行を事とすることは、ただ苦しいだけであって、聖にあらず、役に立たないことである。
比丘たちよ、如来は、この二つの極端を捨てて、中道を悟った。それは、眼を開き、智を生じ、寂静・証智・等覚・涅槃にいたらしめる。」(増谷文雄編著『阿含経典2』ちくま学芸文庫、p.283)
よく分からない
ここに「二つの極端を捨てて、中道を悟った」とあります。仏教の専門家は、「中道とは、二つの極端を離れた正しい道」というように説明してくれます。学問的には、そうなるのだと思います。しかし、実務者の立場からは、この説明では具体的にどうすればいいのか分からないのです。端的に言えば、実務の役には立たないのです。
そこで、私は、実務者の立場から、中道を考えてみることにしました。
「中」の意味
「中道」の「中」は、どういう意味でしょうか。
二つの極端から離れたところにある何かなのだとは分かります。そこから先が分からないのです。
そんな中で、中村 元博士のお話に出会いました。
中村 元博士は奈良康明博士とのNHKの対談番組の中で、
「『二つの対立した極端にとらわれるな。さらに中(ちゅう)にもとらわれるな』という教えが『スッタニパータ』に出ているんですね。それは今おっしゃいましたように、二つの極端があると、それを合わせて、足して二で割る、と。そういうことにまたとらわれてはいけない。本当に適切な、要点にピタッと当たるということが必要である、と。『中(ちゅう)』という字は、これは『あたる』とも読みますね。」
と、おっしゃってました。
「中道」の「中」は、「要点にピタッと当たる」という意味だったのです。
役に立つ
初転法輪の教えでは「愛欲に貪著する」ことと「苦行を事とする」ことは、「役に立たない」とあります。「役に立たない」とは、「修行の目的を達成するための役に立たない」ということです。修行の目的という要点にピタッと当たっていないのです。
すると、「修行の目的を達成するために役に立つ」ことが、要点にピタッと当たっていることであり、中道であるということになります。
ここで、「中道とは、正しい目的を達成するために役に立つ行ないである」という定義が得られるのです。
するべきことをする
原始仏典に「為すべきことを為す」「為さざるべきことを為さない」という教えが出てきます。「するべきことをする」「してはならないことはしない」と言い換えてもいいと思います。
「するべきこと」とは、その時、その場のシチュエーションに応じて、「本当に適切な、要点にピタッと当たる」言動であると考えられます。要点から外れたことは、「しなくてもいいこと」であり、ときには「してはならないこと」でありましょう。
ここから、「中道とは、するべきことをして、してはならないことはしないことである」という定義が得られます。(参照⇒中道ーするべきこと)
大雑把な定義ですが
こうして、「中道」の、実務上の定義として次の二つを得ることができました。
定義1:中道とは、正しい目的を達成するために役に立つ行ないである。
定義2:中道とは、するべきことをして、してはならないことはしないことである。
実務者の立場に立つと、この定義なら、自分が何をすればいいのか、見当をつけることができます。大雑把ですが、役に立つ定義です。
智慧が必要
この定義を使おうとすると、智慧が必要であることに気付きます。
定義1では、「正しい目的」を知る必要があります。また、「役に立つ行ない」を見出すことができなければなりません。
定義2では、するべきことを知り、してはならないことを知る必要があります。
これらを知るには、ものごとのありのままをありのままに知る智慧が必要となります。
自分の中に智慧を養う道として、原始仏典に説かれる「四聖諦・八正道」、妙法蓮華経に説かれる「諸法実相十如是・六波羅蜜」は有効であると、私は実感しています。