我・無我

仏教

  仏教には「無我」「非我」という教えが説かれます。
 「無我」は「我が無い」、「非我」は「我では無い」ということです。
 「我とは、自分に対する錯覚である」とか「我とは、自分に対する誤認である」とか「我とは自分に対する間違った思い込みである」というような説明がなされます。
 自分をどのように錯覚するのか、誤認するのか、思い込むのかについて、学者・研究 者によるいろいろな説明がありますが、今回は、現代に生きる実務者の立場から考えてみたいと思います。

執着

 人は、自分に快さをもたらすものに出会いますと、近づきたいという感情が生じます。そして離れたくないと執着し、自分のものにしたいという欲望が生じます。欲望は次第に肥大化し、歪みを生じ、貪欲となります。貪欲が満たされないと、瞋恚(怒り)を発します。いわゆる、ものごとが自分の思い通りにならないと腹が立つというやつです。
 自分に不快をもたらすものに対しては、近づきたくないという感情が生じ、離れたい、遠ざけたいという、いわばマイナスの執著が生じます。なおも相手が近づいてきますと、相手をやっつけようという瞋恚(怒り)を発します。これもまた、自分の思い通りにならないと腹が立つというやつです。

三毒

 貪欲やら瞋恚やらの感情には、智慧がありません。このことを愚痴といいます。貪欲・瞋恚・愚痴は根本煩悩と呼ばれたり、三毒と言われたりしています。そのおおもとは執着です。貪欲・瞋恚・愚痴から、さらにさまざまな煩悩が生じ、さまざまな苦悩が生じます。

我の発生

  執着から貪欲・瞋恚・愚痴が生じ、貪欲・瞋恚・愚痴などの迷いで日々を送ります。そして、「貪欲・瞋恚・愚痴に生きる自分が、ほんとうの自分だ」と思います。ここに「自分に対する錯覚」とか「自分に対する誤認」とか「自分に対する間違った思い込み」などが生じてくるのです。これが「我」です。
 「我」が生じますと、今度は「我」に執着します。「貪欲・瞋恚・愚痴に生きる自分」に執着するのです。
 しかし「我」は、本当の自分ではありません。「貪欲・瞋恚・愚痴に生きる自分はほんとうの自分ではない」という意味で、「非我」といいます。
 我が生じますと、ほんとうの自分は我に覆われてしまいます。我が弱いときには、ほんとうの自分も顔を出すことができますが、我が強くなるとほんとうの自分は我に埋没してしまいます。

解脱・涅槃

 仏教における修行の目的は、解脱して涅槃に入ることだと言われます。
 解脱とは、貪欲・瞋恚・愚痴などの迷いから解放され、脱出することです。
 涅槃とは消えるということですから、貪欲・瞋恚・愚痴などの迷いがすっかり消えてなくなった境地です。貪欲・瞋恚・愚痴などの迷いがすっかりなくなりますと、「我」が無くなり、それまで「我」に覆われていたほんとうの自分が現れます。「我」が無い自分、「無我」の自分です。

ほんとうの自分

  「ほんとうの自分」とは、久遠実成の本仏に生かされているとおりに生きる自分です。「仏性に生きる自分」と言ってもいいと思います。
 このような自分は、自己実現をしながら、自分らしく生きる自分です。
 自己実現とは、自分の意思で、自分の持っている力で、自分・相手・世間の人びとの幸せのために役立つことを行なうことです。ここから、価値の高い、生きがいのある人生が紡ぎ出されるのです。
 「無我」の自分になることがゴールではありません。これからほんとうの自分を生きるのですから、むしろ、スタートと言っていいでしょう。

無我への道

我で生きるすがた
 我で生きる人は、自分の中にうごめく貪欲・瞋恚・愚痴を後生大事にして、自分本位に生きる人です。
 なんでもかんでも、自分の思い通りにしたい、思い通りになるべきだと思っています。自分の思い通りにならないときには、怒りを発し、攻撃し、排除しようとします。
 人と人とが、お互いにそういうことをしまうと、そこに争いが生じ、傷つけ合いが生じ、収拾がつかなくなることもあります。

無我の生き方に入る道
 このような我の生き方をやめて、貪欲・瞋恚・愚痴の無い無我の生き方に入りたいと願うなら、道はあります。
 お釈迦さまがお説きくださった四聖諦を学び、理解し、実践する修行者になることです。四聖諦は修行者を八正道に導きます。四聖諦の指し示す八正道を学び、理解し、実践することを粘り強く繰り返すことができれば、次第に我が弱くなり、無我に近づくことができます。さらに四聖諦・八正道を粘り強く学び、理解し、実践し続ければ、必ず、無我の境地に入ることができます。

指導者を見つける
 我の生き方をやめて無我の生き方に入る修行をしたいと思うなら、指導者を見つけることをお薦めします。自分一人で修行を進めるのはきわめて困難だからです。そのときそのときの状態に応じて、適切に四聖諦・八正道を説いて、歩むべき道を示してくれる指導者、寄り添って後押しをしてくれる指導者、いつまでも見放さないで指導を続けてくれる指導者、そういう指導者を見つけることができれば、道は開けてくると思います。

浪 宏友(本名:中原常友)
詩人・仏教研究家・経営コンサルタント
妙法蓮華経と原始仏教を学び続けて70年
宗教ではない仏教「ビジネス縁起観」を開発
1940年(昭和15年)生

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