中道
お釈迦さまは、鹿野園で、五人の修行者に向かって、初めての説法をなさいました。最初に説いた教えは「中道」でした。
お釈迦さまのお説法をたどってみたいと思います。
「修行者は、愛欲を貪ってはなりません。愛欲を貪ることは、下劣であって卑しいものです。悟りを得るために何の役にも立ちません」
お釈迦さまは、出家する前は釈迦族の王子でした。宮廷で愛欲を貪る生活を経験しておられます。 この生活が、悟りを得るためには何の役にも立たなかったとおっしゃっておられるのかもしれません。
「修行者は、苦行に専念してはなりません。苦行に専念しても、ただ苦しいだけです。悟りを得るために何の役にも立ちません」
出家なさったお釈迦さまは、アーラーラ・カーラーマ仙人のもとで修行し、ついでウッダカ・ラーマプッタ仙人のもとで修行しましたが、悟りは得られませんでした。二人のもとを辞したお釈迦さまは、苦行に入られました。それは激しいものだったと伝えられています。しかし、苦行によっても、悟りは得られませんでした。苦行は悟りを得るための役に立たなかったのです。
「私は、この二つの道を捨てて、中道を悟りました。中道を実践して、悟りを得ることができました。中道だけが、悟りを得るために役に立ちます」
お釈迦さまは苦行をやめて、村人の捧げる食べ物をいただき、菩提樹の作る心地よい木陰に座をしつらえ、瞑想に入られました。そして、ついに、悟りを得られてブッダとなられました。
お釈迦さまが苦行をやめられたのは、中道を悟られたからだとおっしゃっておられます。苦行をやめられた後のお釈迦さまの生き方に中道があるわけです。詳しいこと、深いことは分かりませんが、少なくとも、健全な人間として生きる健全な道が中道であると受け取ることができます。
キーワード
このお説法におけるキーワードは「悟りを得るために役に立つ」です。このお説法での「中道」とは、「悟りを得るために役に立つ修行」という意味であると受け取ることができます。
- 愛欲を貪ることは、悟りを得るために役に立ちません。
- 苦行に専念することは、悟りを得るために役に立ちません。
健全な生き方の中で営んだ瞑想が、悟りを得るために役に立ったように見受けられます。
お釈迦さまのお説法を拝読させていただきますと、当時行なわれていた学問や宗教などを徹底的に学んでは思索するという努力を続けられた形跡があります。そうしたことも、悟りを得るために役に立ったにちがいありません。その意味で、こうしたご努力も、中道の内容に含まれるのではないでしょうか。
ともあれ、このお説法における中道は、「悟りを得るために役に立つ道」としていいのではないかと、私は考えています。
久遠実成の本仏と中道
私たちは、久遠実成の本仏に生かされています。
久遠実成の本仏は「人間なら人間、動物なら動物、植物なら植物、そのものの持っている本来の生命を生き生きと発現させ、すくすくと伸ばしてやろう」(庭野日敬著『法華経の新しい解釈』佼成出版社、p.35)となさっておられます。
この久遠実成の本仏のみ心のとおりに生きれば、一人一人が自分らしく生きることができます。それが、健全な人間として生きる健全な道であると考えられます。ここから、久遠実成の本仏に生かされるとおりに生きることが、中道にちがいないと、私は考えています。
日常生活における中道
お釈迦さまの教えは、日常生活で実行してこそ真価を発揮します。
家族と仲良くやっていく、職場の人々と笑顔で会話する、友人たちと心置きなく付き合う、そんな毎日を送る自分でありたいと思います。
そのような自分になるために、中道の実践を心がけることが大切なのだと思います。
中道というと、難しく感じますが、あれこれと学ぶうちに、次のように考えればいいことに気付きました。
「いま、するべきことをする、してはならないことはしない」
これこそ、日常生活における中道だと、私は考えています。
ここで必要になるのは、「いま、するべきことが分かる智慧と、それを行なう実行力」です。また、「いま、してはならないことを知る智慧と、それを行なわない自制心です」
そのような智慧、実行力、自制心を養う道は、お釈迦さまがお説きくださる八正道であると考え、私は、八正道の修習を心がけています。